「主イエス・キリストの体とされた光栄」   08.04.27
                        コリント一12:12〜27

 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人は
その部分です。」(27節)今年度の教会標語は、この聖句から
採られたものです。
 教会標語に触れるたびに思い起こしたい第一のことは、
主イエスの体の一部分とされていることの光栄です。
 私たちは、主の体の部分として、教会の働きを担い、奉仕をし、
主のために動きます。「時と、財と力をささげて、教会の維持
発展につくすこと」(生活綱領より)が、教会員のなすべきことの
第一に挙げられています。自分のなすべき務めを見極め、自分に
与えられている賜物を生かす歩みを確立していただきたいのです。
 しかし、主イエスは、私たちを手足のように利用するために
召してくださったのではありません。体の部分のように、私たちの
ことを、ご自分にとって無くてはならない存在としておられると
いうことです。それゆえに、大切にして、守ろうとしてくださいます。
 私たちの痛みを、ご自分の痛みとしてくださいます。
 私たちの喜びを、共に喜ばれます。
 イエスさまと一体のものとして、共にいてくださるということです。
 私たちは、自分の欠けや愚かさを知っていますから、そんな
自分が、主イエスにとってなくてはならない存在とされているなど
とは、信じられないかもしれません。しかしながら、そんな私たち
だからこそ、この標語をいつも心にとめていたいのです。
 標語によって思い起したい第二のことは、主イエスの体には、
自分以外の他の部分もあるということです。キリスト教信仰は、
個人ではなく教会という共同体による信仰です。自分以外の
他者に心を配ります。他者のなかには、自分と気の合わない
人たちもいます。弱くて配慮をしなくてはならない人もいます。
 教会は、私たちを愛しぬかれた主イエスの体と言われます。
 ですから、互いに配慮しあい、愛し合うことがなければ教会と
なっていきません。 それを保つのは簡単ではありません。
 ですから聖書は、13章のような愛の賜物を受けるように、
熱心に祈りなさいと言うのです。